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ロシアの唄とは

パリャーノチカのフルンゼさんにライブにきていただいてロシアの歌の勉強会を
時々開いてゆきたいと考えています。どなたでもmライブに来ていただければ
フルンゼさんの都合に合わせてという事になりますが、教材や曲も気宇を選んで21曲づつ
じっくりとロシア語の歌を聞いて歌の意味やロシア語の発音などを教えてもらう時間としたいと思っています。
フルンゼさんは軍事評論家としてお忙しいのでなんとかうまくやりくりしてゆきたいと思います。
2013年4月のパーティでその第1回目を開き出席されたお客様も大喜びでした。
フルンゼさんよろしくお願いします。

うたごえでよく歌われるロシアの唄
アムール川の波 カチューシャ ともしび 心騒ぐ青春の歌
黒い瞳の 囚人の歌 ステンカラージン
悲しき天使 泉のほとり(戦場の髯) スリコ 果てもなき荒野原
トロイカ 郵便馬車の馭者だった頃 コサックの子守唄 コサックの悲歌(エレジー)
仕事の歌 ヴォルガの舟歌 エルベ河 バルカンの星の下に
バイカル湖のほとり 暗い夜 モスクワ郊外の夕べ
カリンカ 波止場の夜 百万本のバラ どん底
すずらん 小さい部屋 山のロザリア 小さいグミの木
ウラルのグミの木 一週間 川岸のベンチで コサックは口笛を吹いて
ポーリュシカポーレ 満洲の丘にたちて ジグーリ ロシア
ワーシャワシリョーク リラの花 淋しいアコーデオン りんごの花咲く頃
美わし春の花よ 私の恋人 丸顔の娘 ヴォルガ下り
行商人 春に ペトルスとマルーシャ 鐘の音は単調に鳴る
樫の木 おおカリーナの花が咲く 十八歳 私の焚き火
ワルシャワ労働歌 国際学生連盟の歌 赤いサラファン 船乗り
収穫の歌 ざわめけバイカル 流刑人 シベリヤ大地の歌
二つのギター 青いプラトーク 黒い眸 インターナショナル
ロシアの草原 聖なる湖バイカル コムソモールの歌 燃えろペチカ
懐かしきヴォルガ 二つの岸 囚われ人 前線にも春が来た
夜は暗い 仕事の歌(原曲) 漁夫の歌 我らの仲間
ドニエプル 広きドニエプルの嵐 街のざわめきも聞こえず ロマンス
小麦色の娘 白樺 12人の盗賊 せわしき川のながれ

バリャーノチカの皆さんから情報をいただくようになって、
いろいろなロシアの歌の情報を教えてもらっています。
彼らはロシアの歌をロシア語で歌っていますが、
その演奏曲目と歌の解説をここに転載させていただきます。
フルンゼさん、よろしく。

 「カチューシャ」

                          
                     
 前線で「カチューシャ」を唄うリディア・ルスラノヴァ

[解説]

 “ロシア民謡”の代表として、日本でもあまりに有名なこの曲は、193811月にリリースされた
マトヴェイ・イサーコヴィッチ・ブランテル(
19031990)作曲のソヴィエト歌曲です。
当時、ソ連が力を入れて共和国政府側を支援したスペイン内乱(
19371939)も
ナチス・ドイツやイタリアが後押ししたフランコ反乱軍側優勢が決定的となりました。
併せて東欧でもドイツからのチェコスロヴァキアに対する
ズェーデン地方領土割譲要求が英仏の参加したミュンヘン会談で認められるなど、
共産主義ソ連に対する宿敵=ナチス・ファシズム勢力の伸張が顕著でした。

 こうしてソ連西部国境が次第に緊張状態に置かれ、国民の中に「ドイツとの戦争近し」
の思いが強まってきた折りに、西部国境警備の任にあたる恋人のことを思う
カチューシャの歌は広く人々の心をとらえたのでした。
また、ロシア民謡歌手の名手として著名だったリディア・ルスラーノヴァ(
19001973)は、
「カチューシャ」に出会って「これこそロシアの歌だ!」と感銘し、
自分の代表ナンバーとして演奏を開始しました。これらがあいまって、
独ソ戦前からソ連国民の間でたいへんに流行したのです。

 1941年に独ソ戦(大祖国戦争)が始まると、ルスラーノヴァは前線に出かけて
演奏の中で必ず取り上げ、兵士たちに愛されました。
その結果、当時のソ連軍新兵器だった多連装ロケット砲に「カチューシャ」の名が冠され、
これについての替え歌も作られたほどです。
また、連合国やヨーロッパ各地のレジスタンス運動の中にも広がり、
イタリア・パルチザンでは「風がなる」という題名の替え歌が唄われました。
以上の事情は、日本ではほとんど紹介されたことがありません。

 「青いプラトーク」

[解説]
 1939年、ポーランドがドイツとソ連に分割占領された後
、反ユダヤ政策を押し立てたナチス・ドイツを嫌ってソ連側に難を逃れたユダヤ系ポーランド人、イェジ・ペテルブルスキが作曲したロマンチックな曲で、出征する青年と恋人(妻?)との別れを唄った
「ロシア版リリー・マルレーン」とも言われる歌曲です。
 作曲者ペテルブルスキ(1895〜1979)については、
「女声合唱団チャイカ」サイト内の「ロシア音楽事情」のコーナーに数回に分けた詳しい記述がされています
http://sea.ap.teacup.com/applet/chaika/msgcate5/archive?b=5)。
1939年にはポーランド空軍に勤務し、その後、1943年頃に自由ポーランド軍が編成されると
彼は英国側のアンデルズ将軍指揮下の部隊に参加したようです
(ソ連軍指揮下のポーランド部隊もありました)。戦後は、ブラジル、アルゼンチンなどに移住し、
タンゴなど引き続き音楽創作に取り組んだとされています。1979年に故国ポーランドの首都ワルシャワで没。
 数奇な運命の作曲家がつくった「青いプラトーク」は、独ソ開戦時に「1941年6月22日未明‥」
というタイトルの開戦をテーマにした歌詞で唄われましたが、その後、
ウクライナ人女性歌手クラウディヤ・シュリジェンコが唄う「青いプラトーク」として再リリースされると、
国内はもとより前線部隊の間でも絶大な人気をかちとりました。
女性兵士の回想などでも、「前線の地下壕の中などでよく唄った歌」と述べられています。
 以後、今日まで長く唄われ続けるロシアの人気ナンバーで、
日本でも和訳されて唄われていますが、私の感じでは歌詞がだいぶ
オリジナルのイメージと異なっているように思えてなりません。
3番の「僕の機関銃は吼え続ける」のくだりは前後を考えると、
スペイン内乱の中でのアメリカ人義勇兵(ゲーリー・クーパー)の恋と死を描いた
ヘミングウェイ原作の映画「誰が為に鐘は鳴る」のラストシーンを思わせる美しい下りだと思うのですが‥。
 私たちは、歌詞の含意をお知らせしながら、ロシア語歌詞での演奏にこだわっていきたいと思います。

  「ポーリュシカ・ポーレ」
       

[解説]
 「カチューシャ」の作曲家として有名なマトヴェイ・イサーコヴィッチ・ブランテル(1903〜1990)が
1966年に作った曲。戦後の作品ですが、大祖国戦争(1941〜1945)時に
コサック村から出征する若いコサック兵が、既に父親も出征してしまって
鍛冶屋を切り盛りしている少女とのやりとりを戦友にユーモラスに語りかける内容です。
ブランテルは、戦時中に前線まで出かけて取材し、赤軍兵士や銃後の市民を励ます
「愛国歌」を50曲以上も作りました。彼の曲は大変人気があり、戦後も長く唄われていますが、
この曲は戦時中のテーマを20年以上たってから持ち越して創作されたものです。
おそらく、セルヴィンスキーが作詞したこの内容は、戦時中にどこかの部隊のコサック兵が語った
エピソードをモチーフにしたものでしょう。
ユーモラスな少女とコサック兵のやりとりが軽快なリズムに乗ってここちよい傑作です。
映像は、ブランテル生誕75周年記念コンサートにおけるアレクサンドロフ記念ソヴィエト陸軍歌と
踊りのアンサンブルによる演奏で、ソリストはイーゴリ・ヴォルコフ(バス)。


ロシアの唄・追録
ロシアの歌、この間から暇を見つけては昔買い込んでいたロシア関係の
書物や案内を読み漁っているのですが。
土井恒之先生の著書「ステンカラージン」や「ロシア・ロマノフ王朝の大地」、
昭和27年発行の井上頼豊先生の「ロシアの民謡」、昭和43年発行の北川剛先生の
ロシア民謡の歴史など、一度読んだはずなのにとても懐かしくあたらしい発見の多いご本でした。
ロシアの歌の歌姫であちこちでライブ活動や演奏活動されている大先輩、
山之内滋美さんの「黒い瞳から百万本のバラまで」と「トロイカから私を呼んでまで」という
東洋書店発行のユーラシアブックレット31、No70の二冊は、
ロシアの歌をうたう私にはとても大切な座右の書になりました。
以前私のライブに来ていただいたときに、目の前に山之内さんが座っておられるのに気づかず、
ブックレットのロシアの歌案内から得た情報を披露し、山之内さんの記事から抜粋して私が勝手に作った、
歌の説明をごらんになっていたのですが、ご本人が目の前におられることに私が気がついて、
真っ青になりました。直接了解とってなかったので・・・最後の方にブックレットに、
出版社・書名とお名前の紹介があることにをごらんになってその場で快くご了解いただきました。
でもいまだに申し訳なかったと反省しています。
ほかに同じシリーズのブックレットで伊藤一郎先生の(ロシア文化の中の文化)もロシアの歌の解説で大切な一冊です。
ロシア関連の読み物として、亡くなられた米原万里先生のロシア関係の随筆もとてもうれしいシリーズです。
そんなことで、ロシアの大地と風俗にひかれている私ですが、
私に輪をかけての好き者に清水先生といううたごえ仲間がいて、先日ずーっと探していたDVD「シベリヤ物語」を貸してくれました。
このDVD映画はどうもダビングが出来ないようなので発行元に連絡を取ろうとしたのですが、
電話連絡先が不明で残念な状態です。この映画には「バイカル湖のほとり」や
「シベリヤ大地の歌」「流刑人」などを歌うシーンが出てくるので、
今朝から仕事はそっちのけでもう3回もみてしまいました。
もう一度じっくりと見て皆さんにうたわれる部分のハイライトがご報告ができたらと思います。
このほかにも、DVDの発売案内には「道」「鶴は翔んで行く」「戦争と平和」などがあります。
誰かIVC(アイ・ヴイ・シー)という会社の連絡先を教えてくれませんか。
4月追記

今、昔購入し積読(つんどく)状態だった、ユーラシアブック(17)の伊藤一郎先生の
「マーシャは川を渡れない」をひさしぶりに読み直しています。題名のマーシャは川を渡れない、
赤いサラファン、母なるヴォルガを下りて、ステンカラージン、12人の盗賊、
郵便馬車の馭者だった頃、小さなぐみの木、ふたつのギターなどの歌の歴史や内容の解説と紹介が
書かれていてとてもいい本だと再認識しています。無断で申し訳ないのですが、
この中に書かれているエピソードを原文から抜粋してその1節をご紹介します

「川を渡る」ことの意味
 ・・この歌は【許されない恋】を主題としています。
ところで注意していただきたいのが冒頭の2行の対句的表現で,「川を渡る」事と「若者を愛する」ことが
同義語であるかのように並置されています。論理的には、若者は川のムコウに住んでいて、
若者に会うためには川を渡らなければならないからだと考えれば説明はつくのですが、
実はロシア民謡において川を渡る行為は常に恋愛又は結婚のシンボルとしてあらわれているのです。・・・・・・・

「橋の持つイメージ」ロシアの叙情歌では,橋の持つイメージは明確に恋愛及び
結婚のシンボルとしてあらわれています。
叙情歌にあらわれる橋は枕詞的に「カリーナの」という形容詞を伴うことが多いのですが、
これはカリーナもフォークロアで結婚のシンボルとして用いられることと結びついています。
娘は若者とこの橋の上で出会うか、この橋を渡って若者に会いに行くかするのが普通で、
娘が結婚するとこの橋は崩れるか燃え尽きてしまうということになっています。
このような恋愛結婚のシンボルとしての橋のイメージは実際に占いの中にも見られ
ポチェプニャーは論文の中でそれを紹介しています。
添えによると、むすめたちの間に,木(主に白樺)の枝で小さな橋を作り、
「私に橋を渡らせてくれるのが私の夫よ」と唱えながらそれを枕の下において寝るという風習があるそうで
そうすることによって夢の中に未来の夫が現れて橋を渡らせてくれると信じられているそうです。
・・・・その他いろんな歌のエピソードや解説が詳しく丁寧に紹介されています。
この本は\600と格安で内容が充実してます皆さんもぜひどうぞ・・
ロシア寺院画像 ロシアについて:ロシア連邦のホームページに詳しく解説されていますが、旅行のガイド誌”地球の歩き方に分かりやすい説明を見つけたので紹介します。
  • 正式の国名は、「ロシア連邦」。・国旗は1833年に制定されソ連崩壊後の2000年にふたたび国旗に制定。上から白(高潔)青(正直)赤(勇気)をあらわすとされている。国章は双頭の鷲。(2000年制定)
  • 国歌は「ロシア連邦国歌」1933年に採用され2000年に新歌詩がつけられたものを制定。
  • 元首 「ウラジミール・プーチン大統領」2006年12月現在。
  • 面積 1708万平方キロメートル(日本の約465倍)
  • 人口 1億4289万人(2006年推計)
  • 首都 モスクワ(人口853万人)
  • 民族構成 ロシア人81.5%、タタール人3.8%、ウクライナ人3%、チユバシ人1.2%、バシキール人0.9%など。160を超える民族が居住する。言語は公用語がロシア語だがそれぞれの民族が独自の言語も使用している。宗教は キリスト教のロシア正教をはじめイスラム教、ユダヤ教、仏教などである。
  • 国土 北緯66.5度以北の北極圏を中心に広がる永久凍土のツンドラか、寒帯性の森林帯が、乾燥性草原のステップ、ヴォルガ川下流域の半砂漠、北コーカサスの山岳地帯とロシア国土は多様。
  • 一般に南北に2000キロメートルに延びるウラル山脈を境に西側をヨーロッパ・ロシア、東側をアジア・ロシアとして区分することが多い。ヨーロッパロシアは広大な東ヨーロッパ平原の大部分をなしている。アジアロシアはウラル山脈からエニセイ川まで低地が広がり、東シベリアから極東にかけては大地や高原、山地が続く。シベリアはロシア連邦の全面積の3/4を占めている。・気候 典型的な大陸性気候。国土の大部分は寒冷な気候で短く冷涼な夏と、長く続く厳寒の冬が特徴。夏と冬との気温差は30〜75℃に及ぶ。ヨーロッパロシアの一〜二月の平均気温はマイナス10℃前後だが、シベリアでは−20〜35℃で内陸部はマイナス50℃以下になるところもある。ちなみにモスクワの平均気温は1月が最低平均気温でマイナス12℃、最高平均気温がマイナス6℃、もっとも気温が高い7月が最低気温13℃採光気温が22℃くらいとなっている。
    (以上地球の歩き方ダイヤモンド社定価1880円+税。より抜粋)

このコーナー「らすぺふ」は毎月最終土曜日に開いているらすぺふの集まりで主催の松本明子さんがお話されている貴重な情報を皆様にご披露したく、ご了解をいただいて私宛にメールして下さったものです。
今後情報をいただくたびに連載できればと思います。
らすぺふ ロシアの歌を勉強し歌う会 松本明子さん
戦時の状況
  ロシアの愛唱歌は、戦後ほどポピュラーではなかったにせよ1930年代(昭和5年〜)には「ヴォルガの舟唄」「赤いサラファン」「ステンカ・ラージン」「黒い瞳」などを日本人歌手が訳詞で歌っており、楽譜も少なからず出回っていました。太平洋戦争が始まって1942年、アメリカ人・イギリス人の作った作品は敵性楽曲ということになって演奏できなくなりました。一方、同盟国のドイツとイタリアの音楽は大丈夫でした。ロシアの音楽は、クラシックについては、チャイコフスキーやショスタコヴィチの曲が1943年にも演奏された記録があります。歌謡の世界では、ロシアもののレコードの発売は1941年3月の「ヴォルガの船歌」を最後に戦後まで途切れます。ただしロシアものが特に締め出されたわけではなく、愛唱歌から外国起源の歌が無くなって日本の軍歌が占める時代になっていく傾向の一つと捉えるべきでしょう。(吉野秋子 東京大学文学部現代文芸論専修課程卒)
「ソフィアの歌」
 江戸時代の1792年、漂着先のロシアから戻った大黒屋光太夫が覚えていた歌。故に日本最古のロシアの歌と言われます。光太夫曰く、逗留先の家族のソフィア嬢が歌ってくれたということで通称「ソフィアの歌」。彼は「ソフィアが自分の身の上を歌にしてくれた」ように語っていましたが、ロシア民俗学の中村喜和の研究によれば、ソフィアさんオリジナルではなさそうです。歌詞は当時すでに流行っていたもの、メロディ原曲はウクライナ民謡「Oy,gai,gai,gai,gai zelenen’kiy (おお森、森、森、緑の森)」と思われ、現代ウクライナに残っています。同じ詞で別メロディの歌もあります。
 さて、現代日本における「ソフィアの歌」については、関鑑子の日本語訳詞は記録に忠実ですが、メロディは光太夫が実際に聞いたものとはヴァージョン違いの模様。

 さらに
1992年の映画「おろしや国酔夢譚」の中でソフィアが光太夫に歌ったのは、五木寛之が「コサックの子守唄」と融合させた曲でした。(吉野秋子・東京大学文学部現代文芸論専修課程卒)
2011年6月らすぺふ「日本の正教会聖歌」★「荒城の月」
 明治初めにロシアからまとめて導入されたのが、キリスト教の一派でロシア人の多くがその信者である正教会の聖歌です。宣教師ニコライが、その頃ロシアでスタンダードとされていた聖歌集を日本に持ち込み、教会スラブ語から日本語に訳して歌わせました。教会スラブ語というのはロシア語に極めて似た教会用の語です。聖歌集は、ギリシャから正教が導入された後、ロシアを中心に固有に発達したズナメニ調」などの定型旋律と、その後に西洋の影響を受けて発達した歌い方の聖歌の各種がアンソロジー的に入ったものでした。その後、ロシア留学を果たし、聖歌を作曲する日本人も現れました。因みに聖歌はもともとある日本の歌に定められた歌詞を充てても成立する訳で、日本ではなく海外で教会スラブ語聖歌に「荒城の月」のメロディが使われるということも起こっています。(吉野秋子 東京大学文学部現代文芸論専修課程卒)
昇曙夢と「どん底の歌」
 昇曙夢(のぼり・しょむ1878-1958)は正教神学校でロシア語を学び、多くのロシア文学作品を翻訳した人です。ゴーリキーの戯曲『どん底』を訳したのは1910年のことですが、すでにドイツ語から訳した小山内薫が自由劇場でこれを公演している時でした。二幕と四幕に劇中歌があります。 小山内は実演に際してフランス語訳の楽譜で訳詞を作って歌わせ、一方の昇は訳詞付の楽譜を頁に入れて出版。これは現在「どん底の歌」と呼ばれ小山内訳で歌われていますが、作品名を「どん底」と訳したのは昇であり、小山内は本人曰く「昇氏に対する遠慮と重訳である後めたさから」劇の題を「夜の宿」としていました。

 昇曙夢は
1920年に『ろしあ民謡集』を著し、たくさんの歌詞を紹介しました。戦後「雪の白樺並木〜」と歌われることになったあの「トロイカ」の原語歌詞も2種類の翻訳で載せています。(吉野秋子 東京大学文学部現代文芸論専修課程卒)
      
2011年7月 らすぺふVolga Boatman Song
「どんなに音楽のことに就て(ついて)知らない人でも『ヴォルガの舟歌』は知っておられるでせう。」と記すのは1934年(昭和9)出版の「音楽二十五夜話」(服部竜太郎著、伊藤書林)です。この頃、人々はロシア人バス歌手のシャリャーピンやドン・コサック男声合唱団のレコードでこの歌を聴くことができました。
 日本語訳詞も乱立状態。冒頭の歌詞は原語で「エイ・ウーフニェム」という掛け声ですが、矢田部勁吉訳「エンヤラホィ」、中群節二訳「エーョホイ」、津川主一訳「ひーけーよ」、門馬直衛訳「えーこら」といった具合です。楽譜はその多くが、歌詞にドイツ語が書いてあったり、タイトルに英語が書いてあったりと、欧米から入手した楽譜を元に作った風です。では訳詞が重訳か否かというと、歌詞はそもそも直訳ではない故に、訳詞者自身が裏を明かさない限りはどちらとも決めつけることはできません。
 (吉野秋子 東京大学文学部現代文芸論専修課程卒)
戦時の状況
ロシアの愛唱歌は、戦後ほどポピュラーではなかったにせよ1930年代(昭和5年〜)には「ヴォルガの舟唄」「赤いサラファン」「ステンカ・ラージン」「黒い瞳」などを日本人歌手が訳詞で歌っており、楽譜も少なからず出回っていました。太平洋戦争が始まって1942年、アメリカ人・イギリス人の作った作品は敵性楽曲ということになって演奏できなくなりました。一方、同盟国のドイツとイタリアの音楽は大丈夫でした。

 ロシアの音楽は、クラシックについては、チャイコフスキーやショスタコヴィチの曲が
1943年や44年にも演奏された記録があります。歌謡の世界では、ロシアもののレコードの発売は19413月の「ヴォルガの船歌」を最後に戦後まで途切れます。ただしロシアものが特に締め出されたわけではなく、愛唱歌から外国起源の歌が無くなって日本の軍歌が占める時代になっていく傾向の一つと捉えるべきでしょう。
(吉野秋子 東京大学文学部現代文芸論専修課程卒)